物騒な世の中になった・・全く最近の若者は・・
こういう言説って数十年前から、いや数千年前からあるが、聞くたびにモヤモヤとしたものが胸の中に込み上がっていた。
で、最近ある本を読んで、タイトルの考えが真実だと確信した。何故現在の若者の方が老人より倫理観が高いか、自分の考えを書いていく。
あくまで、全体的に見て・・ということなので、あしからず・・・
現代の倫理観の基準は年々凄まじい勢いで更新されている。
第一の理由として、世間が要求する倫理観の基準が年々更新されているという事実がある。どういうことか、簡単にいくつか例をあげてみよう。
例えば、飲酒運転がある。20年前の多くの人間は、実際に飲酒運転をしていたか、いないかは別として、それ自体は大したことがないものと考えていた。
テレビや小説などにおいて、飲酒運転がたいした意味もなく描写されており、当時の人々の意識をよく表している。
しかし、現代において、「飲酒運転なんて大したことがない」などと発言すれば、明らかに頭がオカシイ人間として認識される。
悲劇的な交通事故が何件も起きて、その危険性が明らかになったから、飲酒運転=してはいけないことだという認識に変わったのであって、人々の倫理観は関係がないという意見もあるだろう。
だが、交通事故の死亡者数(10万人あたり)は、1970年代をピークにほぼ一貫して減少している。
人々が悲劇的な事件を得て、意識が変わったというのが真実ならば、なぜ現代よりもはるかに交通事故の死亡者が多かった70年代当時の人々はその後も飲酒運転を軽いものとして考えていたのだろうか。
当時の人々の倫理観の基準が現代より低く、飲酒運転を止めるという変革が浸透しなかったからではないか。
もちろんこれは全体として見てのことだから、飲酒運転など当時からしていないという人も少なくないだろう。ただ、大衆の意識は概して現代より低かった。
性差別は許されないというのが現代人の常識
さて、もう一つ代表的な事例を上げてみよう。昨今、女性に対するセクハラ行為や発言、あるいは同性愛者に対する差別的言動がやり玉に上がることが多い。
こういう発言や事件を見聞きする度に、現代においても、性差別等の問題は未だ解決してはいないと暗澹たる気持ちになる人もいるだろう。
だが、人々の倫理観が向上した現代だからこそ、この種の発言が問題になるのだ。
30年前に、「女に厳しい仕事はつとまらない」、「同性愛者はどうも気味が悪い」と発言しても、悲しいことだが、たいした問題にはならなかっただろう。
自分を含めて、現代に生きる者の多くは、この手の発言に嫌悪感を覚えるからこそ、「差別的言動」になり、問題になるのだ。
30年前の大衆は、「差別的言動」という認識はしていなかった。むしろ、「お笑い」として許容していた。
成人してから自身の倫理観を変えることはできるのか?
世間が求める倫理観の基準がこの20,30年という短い期間においても、大きく変化してきたことを2つの例をあげて説明した。
さて、このことが、タイトルとどういう関係があるのか。
幼少期、大人や先生など権威ある人々が、「飲んでるんだから、帰りの運転は気をつけろよ」、「ホモは気持ち悪いよな」、「女子供は引っ込んでろ」と発言していたとしよう。
当然、その子供は上記の発言をおかしいこととは考えずに成長するだろう。それが、成人した後に、これらの発言が「問題発言として許されないもの」と世間が要求したからといって、果たして自身の倫理観を変えることは可能なのだろうか。
もちろん、ある程度知恵が回る人ならば、この手の空気感を敏感に察知して、少なくとも公の場ではこうした発言はしないだろう。
だが、心の奥底、本心まではなかなか変えることはできない。差別的言動をしたとして問題となる人々は概して、50代以上に多いのもそういった理由からだろう。
酒を飲んだり、何かのはずみで本心が出てしまうのだ。
反対に、現代の若者は幼少期から、高い倫理基準の世の中を生きてきたのだから、世間の倫理観の基準=自身の倫理観の基準になっている。
ゆえに、現代社会が求める高い倫理教育を受けている若者の方がはるかに倫理観が高いという訳。
もちろん、家庭環境によって、時代に関係なく、高い倫理観を持っている人、逆に倫理観が低い人はいるだろうが、全体的に見ればそういう傾向がある。